Wednesday, September 23, 2015

二風谷、伝承の地をめぐるツアー

続いて、二風谷伝承の地を巡るガイドツアーを萱野志朗実行委員が率いて行いました。

まず、大人のアイヌ語教室が開かれている二風谷子ども図書館を訪れて萱野さんのお話を聞きました。この施設は、1982年に萱野茂さんが私費で建てた私立の図書館であり自由に学べる場所です。当初は子どものアイヌ語教室としてスタートしましたが、その後1987年から大人のアイヌ語教室が始まりました。施設内には二風谷小学校から寄付された本がたくさん並んでいました。萱野さんは、ここに来ると耳がすーっとして言葉が入ってくるような気がする、と語りました。


次に、一行はアイヌ民族等の本部事務所が置いてある生活感へと移動しました。


中には、アイヌ民族党が結成された時にマオリ党議員のテ・ウルロア・フラヴェルさんから送られたマオリのタイアハ(槍)とマオリ党の旗が掲げられていました。その下で、アイヌ民族の政治的状況や、政党を作ることの課題など政治的な話し合いと意見交換が交わされました。


アイヌ民族党結党大会のポスターでエンブレムの説明をする萱野さん


次に、一行は二風谷ダム駐車場へ向かいました。
まず、そこから対岸の山に見えるウカエロシキ・ペウレオッカ(熊の姿岩)について萱野さんが解説しました。人間に生き方を教えたと伝えられるオキクルミの矢から逃れようとした熊の親子が岩に姿を変えられたという物語を萱野さんからお聞きしました。


1998年から運用されている二風谷ダムは、それまで波乱に満ちた行程を経て現在ダムとして使われています。1978年に北海道開発局が二風谷ダムの建設を発表して以来、アイヌ文化にとってとても重要な土地がダムに沈んでしまうため、土地収用を巡って長期の交渉が行われました。特に萱野茂氏と貝沢正氏の両名は最後までダム建設に反対し、補償金などの受け取り・交渉を断ってきました。しかし結局1987年に国側は説得を断念して強制的に土地を収用することを決定してしまいます。強制収用差し止めの訴えも建設大臣に受け入れられず、土地は収用が決まってしまいます。そこで、萱野・貝沢両名は北海道収用委員会を相手に訴訟を起こしました。

1997年3月27日に出た判決では、訴えは棄却されてしまいました。理由は、二風谷ダムの建設は違法ではあるけれど、すでに700億円もの費用をかけて建設を進めてしまったので社会的損失が大きすぎるため取り壊すことはできない、というものでした。しかし、萱野さんは大きな前進が2点あったと言います。

一つ目は、裁判所が、文化と風習が色濃く残っているので、北海道のアイヌ民族は先住民族と言える、と司法の場で明言したことです。これは、まだ国会決議で先住民族であることが政治の場で求められる前の話でしたので、画期的だったと言えます。

二つ目は、訴訟費用を国と収用委員会が払いなさい、と裁判所が言ったということです。本来は裁判にかかった費用は負けた側が負担します。しかし、この裁判では、裁判所が理由をかんがみて費用の負担を国側に請求したという意味で重要であったと萱野さんは説明しました。


また、奇遇なことに、この日はちょうど上流にて、次のダム建設に関して昔からの土地を壊さなければならないことに対してカムイや先祖に謝るためのカムイノミが行われた日でした。二風谷ダムの歴史は、決して過去のはなしではないことと、現在もアイヌ民族の人々が同じような問題に直面し苦悩していることの証明でした。

萱野さんは、もともと沙流川は流れが速い川であったことはアイヌはよくわかっていたが、そこにダムを建設してしまったので、いろいろな物が流れてきてヘドロが滞留してしまい、結局せっかく作ったダムの貯水量も年々減ってきていることを指摘しました。さらに、滞留物などで光がさえぎられ、プランクトンが死滅すると水がどんどん濁っていくということも説明しました。

様々な問題を現在も抱え続ける二風谷ダムをマオリゲストのお二人は静かに眺めて話を聞いていました。

続いて、ペンケトゥコム(上流のくるぶし山)とパンケトィコム(下流のくるぶし山)を見に行きました。また、ペンケピラウトルとペンケピラウトルという二つの崖に挟まれた地を見に行き、平取町という名前の由来がその二つの間という意味から成ったことを学びました。そしてユクチカウシ(鹿を落とすところ)が見えるところから、昔アイヌが鹿をそこに追い詰めて崖から落とし、捕まえていたというお話を聞きました。

最後に、沙流川のシャケ捕獲場にも足を運びました。
ここでも、二風谷ダムの影響を学びました。鮭は川の流れによって方向を知るため、ダムの手前の部分で流れがなくなってしまうことから、どっちに行ったら良いのかわからなくなってしまう問題があることを聞きました。また、段差によって登れない鮭もいるので、今では小さな川の方へ鮭を誘導して捕っていることを学びました。ケイトさんは、鮭が自然に帰ってくる姿を見れないことは悲しいことだと話していました。



旅の最後には、萱野さんが定期的に行っているラジオ番組放送用のインタビュー収録を行いました。マオリの経験やAMOの経験などが話され、またラジオという形で一人でも多くの人にベンサムさん、ケイトさんの声が届くことを願います。


夜には、平取アイヌ文化保存会の人々とともに、交流会を開き充実した時間を過ごしました。

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